昭和40年07月17日 夜の御理解
改めていこうとする為に、自分の短所を本気で気付かせて頂こう、分からせて頂こうとする精進をする人は、多いんですけれども、自分の長所であることを知らない場合があるですね。その自分の短所を、大体信心させて頂いてですよ、自分の短所があるならば、そこは、本当にいち早く改めようと、はあ、自分にはそういうようなものが、そんなに人に迷惑になったり、それでおかげの道が求められるならば、はあそこんとこを早く一つ改めさせて頂こうという、願いを持たなかったらもう、全然信心は駄目です。
だから信心させて頂く者の中で長年信心して居ってもです、それをいっつも、これは私の癖じゃきんといった具合で、改めようとしない人は、これはもういよいよつまらんですね。それは信心させて頂くなら、そこに本当の自分の、些細な例えば、欠点でも短所でもです、それを分かったら、それを改めようとこう勤める精進する。いわゆる日々改まりが第一と仰るようなところには、案外信心さして頂くものは、本気で信心させて頂く者は、焦点を置くけれども、自分の長所を、自分で知らない場合がある。
良いところを自分で気が付かない場合がある。私は、今日それを気づかせて頂いてですね、今日午後から熊本の(えんちょう?)先生がやって見える。まあ、色々ここに、御造営ののお祝いがあるようでございましたけれども、先生私は、椛目に参りましてから一番ひかれましたのはね、御結界の間というものがあることだという(笑い)、御結界の間という感じだと、よその教会はどっこも、これが無いという。
また、御結界がその御広前全体の中心だと、だから先生、私は今度、おかげ頂いて、自分の御広前を造らせて頂くときにはです。椛目のこの、まず、御結界を作っておいて、御神殿を作りたいという事である。ところが皆、そのご神前を作っておいて、済んだらちょこちょこっと、それからもう、例えば、特に多くの教会なんかで、御結界の小さな教会で、やっとこう体が入るごたるところに入っていってからですね。
なんかこう、うず高く、きしゃないものやらその、積んであるような、まるきり事務所のごとしてあるところがあるけれどもね、ああ、もう、ほんとに感じの悪いもんですよ。これだけ御結界を拝まんならんとか、御結界が御道の信心の生命だとか言われながら、御結界がおろそかにされておる。その点、椛目に来るともう、御広前はせまいけれど、御結界だけはもう、第一机がこんなに堂々と大きいと。
そして、何とはなしにここが、ちょうどこう柱が立って、こうなってるもんですからね、ですから、このう、御結界の間という感じがする。「だからもう、ここであちらはもう、拝まんでん良かごたる気がします。」とこう言うですね。ここへ来たら。どうでもあのう、今度先生、どうでもこう、あちらへ、移るでもこの雰囲気だけは、持っておいでらにゃいけませんよち。
ここを、全部、あの、全然飾りのない飾りというか、しょう桧の柾の、行き当たりを壁になさって、真っ白い壁に、板壁になさってですね、ほんとに御結界の間というものが、このまま、あちらで、どげんなって、どげんなってますかと聞かれてから、ははぁなるほど、うっかりしていたですね、私のほうも。自分で気が付かなかった。同時にですね、ここは入ってきて、ここはズーっと長いということです。
第一この御結界の後ろを通るときなんかは、何か知らんけれども、こう、抜き足差し足といったような、はあ、ここには、先生が座ってあると思うたら、ここに一人ひとりですね、椛目にお参りしたちいう気分に、所々しよりますと、御結界の後ろで。そして、心静かに手を合わせて頂いて、一番向こうまで行っといてから、こちらへこちらへ入ってくるということがですね。
先生今度の御広前は、入り口はどこですか、御結界はどこになりますかと言うて、斜めにこう入ってくるごつなるです。それはいけませんよ、斜めに御広前をこう横切っていくなんていけませんよ、ここはこんなものいけませんよち言うてから、注意を受ければ受けるほどそうですね。確かに、椛目のこの神ながらにでけておることをです、その椛目のいわば特徴でもがあるといったものが。
やはりこれはこのまま持っていかなければいけない。この御広前はお玄関入ったらもうそれは、すでに御広前という感じ二棟になってますからね、そこからこう御広前に繋がるところの廊下なんかは、全然群がるようなとこがあってはいけませんよ。もうあの廊下を通るときにです、丁度ここの廊下を通るような気持ちでです、あのもう自分の例えば正面玄関のあそこんところば、広々と直ぐ広前になりますからね。
そこで例えば御初穂の整理をする、御初穂をあそこんとこでちゃんとさせて頂いてから、もう御広前に着いたという実感。そしてその気持ちをです、じっと持って長い例えば、廊下御広前へ渡る廊下がです廊下のほうへ、庭が見えたり横のほうへ気が散ってはいけません。ここはもう暗かってもいいから皆んなに見えないようにですね、何とか工夫をせねばいけません。これもなかなかいいヒントだと私は思うたです。
でなかったら、廊下でもう折角の気分がくずれてしまう。そして「御広前の入口がこうでなからにゃでけん」と、ここの特徴を言われてですね、「ははぁここにはそういう特徴があったばいなあ」と、気が付かせて頂いた。成程ここを通られる人達が、じなおししちゃ通らんもんね、ここんとこを通るときは話よったっちゃ、やめてからしか通らんもん。もう、入った途端に、ここは畳が長い、長いちいうたっちゃ何間ですかね。
二間、三間、四間、五間ですか、五間やったらまだ、ここありますからね、あそこまで。「そこんところがそのなかなか椛目はいいと思いました」と、という様なことを聞かせて頂きながらです、そういう御広前としての特徴というものを、私共は気が付かない、欠点もあるわけです。欠点はおいとくとしてです。ね、長所だけはもって行かなければならないということを、まあ気づかせて頂くと同時に。
これは自分たちの性格の上にも、私共が知らない場合があるのじゃないだろうかということです。もう、この人のここが素晴らしい。例えばほんとに自分の家の素晴らしさというものを、いよいよ大事にしてですね。私はそれをいよいよ知らせにおるという態度、姿勢というものが必要であるということです。自分の短所を気づかせてもろうて、改まっていくということはです。
これは、信心させて頂くものは、一応誰でもです、改まらしてもらおう、改まらしてもらおうという意欲を、もし持たなかったら、信心になりませんから、そこは人に尋ねたり、または教えの鏡を前に立てたりしてから、改めることに、勤めるけれども、自分の長所というところは皆がうっかりしていることは無かろうか。いわば、屋移りするときに、そのまま長所ばおいて行くような事があっちゃならん。
これからもその長所がいよいよです、素晴らしいものに例えば、久富重雄さんなら久富重雄さん。中野克樹さんなら中野克樹さん。久保山豊さんなら久保山豊さん。それぞれの特徴というものをいよいよ私は伸ばしていって、初めてそれが完成された完成の域とでもいうですかねえ。そういうものに成って行くのじゃなかろうか。その長所がです短所に災いされて、例えばこの久富重雄さんなら久富重雄さんの。
なんというですかね、素朴さというか、実意丁寧さといったようなものが、まあ皆が一つ魅力だとこう思うております。それを身体にかろうて来られる、私共が生活の中に入ってです、いつも( ? )どんこんできんでしょうが。ああこれが自分の( ? )なんだ。もう皆言ってます、もう中野さんなその何と言うか、素朴この人もなかなか素朴さをもっておるわけです。
酒屋さんには似合わんところがある。町で育ったものには似合わん何とはなしに、悪く言ったらおどおどしたといった感じすらある。実にその素朴な。だからこういう気分を忘れなかったら、信心はもう絶対おかげ頂くです。これを何時何時までも持ち続けられて、それをもっと垢抜けされたものになっていけばです。ところがだんだん慣れるに従って、いわば、横着になってくる。
慣れるに従って、いわば(おしょなる?)の中に入って、やっぱりろくそになるということになれば、もう値打ちはなかです。その点、久富さんあたりは、もう何年例えば私のそばで御用されても、それを崩したがらない特徴というものが素晴らしいものですね。だから、自分でもそれを特徴と気づかないでおるのですから、それを特徴と気づかせて貰ったらそれはやはり持っていくという、それをいよいよ伸ばしていくという信心が必要だということを感じたんです。
短所は勿論改めていかなければ、信心向上になりません。けどももっと有名にならんならばです、気が付かずにされることがありますから、気づかせて頂いたら、なるほどそれは、そのまま生かして私は持っていかなければいけないと思います。私のこの、内輪外輪ということは、まだ全然、この御広前のことは、工夫がしてありませんのですから、私としての構想というものが、今日はこう、なったように思いました。はは、これは御結界を中心に先ず、御結界を造っておいといてから。
ご神前だ、いわば神棚だ、取次ぎの間だ、氏子の間だ、ということにならなきゃいけないなと、いったようなことをですね。いわば、私共が、よその大きな教会の一つのイメージといったようなものがありますからね。どうも、それに引っかかるんです。ですからもう、本当に変わった、なるほど御結界を中心の御広前ですね。もう御広前が堂々と、もっと豊かにです、心でも出来なければいけないと言った様な事を気付かせて頂いた。
おかげ頂きまして有難うございました。